【山形県・天童市】織田家菩提寺の三宝寺|織田信長の貴重な肖像画に出会えるお寺
2025/11/13 ※このサイトには広告が含まれます カテゴリー: 参拝
天童市には織田信長を御祭神として祀る建勲神社があります。
その建勲神社の宮司さんから、天童市にある「三宝寺」が織田家の菩提寺であり、毎年本能寺の変(旧暦6月2日)の頃には織田家末裔や関係者が集まり法要をしている、と伺いました。
そして、建勲神社のパンフレットにも使われている織田信長の肖像画の写真もあるそうです。
今回は織田家菩提寺とはどんなお寺なのか、織田信長の肖像画とは…三宝寺の住職に伺ったお話と写真でレポートします!
織田家とのゆかりはいつから?三宝寺の歴史をひもとく

三宝寺は浄土宗のお寺で天童市仲町一丁目にあり、織田信長が御祭神の建勲神社からほど近いところにあります。
山門の前には石塔があり、しっかりと「天童藩主織田家廟所」と彫られています。
天童織田藩は、織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)の末裔の家系です。豊臣秀吉との対立により大大名からは没落しましたが、小藩として生き延び、小幡藩(群馬県甘楽町小幡)から高畠藩(山形県高畠町)を経て文政13年(1830年)に、織田信美によって天童藩を立藩しました。
三宝寺は同年、幕府寺社奉行より織田家の菩提寺として申しつけられ、それ以降領内菩提寺となっています。およそ200年前から菩提寺なのですね。
余談ですが、三宝寺が菩提寺となる前は、崇福寺(群馬県甘楽町)が小幡藩織田家の菩提寺であり、今でも織田信雄から七代の墓碑があるそうです。
三宝寺本堂への参拝レポート|住職から貴重なお話も


山門をくぐると正面に本堂があり、右手には御霊屋(位牌堂)と鯉が泳ぐきれいな池があります。

左手には、立派な鐘楼堂があり、行事や年越しの時に鐘が突かれるそうです。

本堂の手前にある水屋。ここからお墓に掛けるお水を汲むそうです。
とても風情があり素敵ですね。
ちなみに下の写真は数年前のお寺のイベント時の写真です。凄くきれいでした!

いよいよ本堂です。

普段はこのように本堂の戸が閉まっているのですが、左の下駄箱がある扉から入り、左側の棟にいらっしゃる住職にお声がけすると、本堂に上がって参拝できます。

とてもきらびやかな厨子の中に、阿弥陀如来様がいらっしゃいました。
住職のお話によると、この金箔の須弥壇は先代の住職の長年の希望で、それを叶えてからお亡くなりになったとのこと、計り知れない想いと努力があったのだろうな、とありがたい気持ちで参拝させていただきました。

写真を撮らせていただきたいと住職にお願いしたところ、わざわざ灯明をつけてくださいました!
この本堂の右手奥に、織田信長の肖像画(の写真)が掲げられています。
いよいよ織田信長の肖像画写真と対面!

本堂の右手奥に行くと、すぐに信長の肖像画が目に入ります。
信長の生存中に宣教師によって書かれたとされるこの肖像画は、原本が消失しているため、肖像画の写真のみが現存しています。
この写真は明治に宮内庁御用達の「大武写真館」が撮影し、織田家、宮内庁、三宝寺に納められたものだそうです。
この大武写真館は、元天童織田藩士の大武文夫氏が写真家となり、その技術が優れとても繁昌した写真館で、宮内庁御用写真館に命ぜられたそうです。
現在、原本と写真2枚は紛失し、三宝寺のものだけが残されています。
めちゃくちゃイケメンの信長ですよね。
肖像画が描かれた当時の織田家では、信長公にとても似ているとして伝わり、家臣達は年頭の挨拶には必ずこの肖像画に礼拝していたそうです。
このイケメンの信長様に恋した女性達もたくさんいたのではないかしら。
唯一の肖像画写真は御霊屋に掲げられていますが、三宝寺本堂の中にも飾られており、住職にお断りすると自由に拝見できます。
隣にある提灯も当時の物のようです。信長の家紋(織田木瓜紋)の風合いが歴史を感じさせますね。

この写真の下にも、絵のような写真の額縁がありました。

よーく見ると、どうやら「本能寺の変」の戦いの様子のようでした。
絵の下部に「本能寺合戦」と右から書かれています。右側の武士は桔梗紋の旗が見えるので、明智光秀ですね。
中央やや左の奥にいる白装束の武士が織田信長だと思われます。
信長ファンや歴史好きにはたまらない一枚ですね。
この本能寺の変の絵は、よく見ると絵を写真に撮ったもののようです。この写真の裏には何も書かれてなく、詳細は住職にも分からないそうです。
特別に織田家の「御霊屋(おたまや)」も参拝させていただきました!

今回は住職のご厚意により、境内にある御霊屋の御位牌を直接参拝させていただくことができました!
このお社は、織田信長を始めとする歴代当主や一族の79名の御位牌を安置している御霊屋(位牌堂)です。
菩提寺に申しつけられた当時、織田家は三宝寺に対し二十両を寄進し御霊屋を造設しました。高畠の貞泉寺から家臣らが守護しながら行列をして運び、御霊屋に奉安したそうです。
現在の御霊屋は、戊辰戦争で焼失した後、昭和6年に元織田藩士族の会(養正会)によって再建され、仰徳殿(ぎょうとくでん)と呼ばれています。

住職が正面の鍵を外し、扉を開ける瞬間は本当にドキドキしました。

こじんまりした畳の部屋の正面に、あの唯一残った織田信長の肖像画写真が掲げられ、その後ろに漆黒の御位牌がたくさん安置されていました。

見たことも無いほど古い御位牌が圧倒的な数で並んでおり、余りの威圧感にひれ伏すように深々と頭を下げました。
まるで信長公や家臣の方々の前に座っているような感覚です。
「面をあげよ」
そんな言葉が聞こえた気がして、顔を上げて手を合わせお参りさせていただきました。

「近こう寄れ」とは聞こえませんでしたが、お恐れながら、近くからも撮らせていただきました。
本当は一つ一つ御位牌を見たかったのですが、ドキドキし過ぎてよく見る事が出来ませんでした。
後から知ったのですが、この香炉台の脇に置かれた三宝寺のパンフレットの後ろのページに、信長公を初めとする天童織田藩の歴代藩主の戒名が書かれています。
こちらを見ながら、藩主の御位牌を探すのも楽しいかも知れません。
ただし、すごく緊張すると思いますが…。

左側には、このような木で彫られた信長像もありました。
この御霊屋(仰徳殿)は長い年月を経た今でも、あの歴史上の大人物、織田信長や織田藩士の方々と間近で接することが出来るすばらしい場所です。
信長ファンなら、是非一度お参りすべき場所だと思います。
※住職にお声がけすると誰でも参拝できますが、住職が不在の時もあるそうなので、事前に連絡をしてください。
ちなみに、毎年執り行われる信長公の法要は、この御霊屋で行われるそうです。
本能寺の変の時期に毎年法要があるって本当?
三宝寺が天童藩織田家の菩提寺であることが確認できた私は、どうしても住職にお聞きしたいことがありました。
それは「毎年本能寺の変(旧暦6月2日)の頃に織田家末裔や関係者が集まり法要をしている」というのは事実か、と言うことです。
思い切って住職に切り出してみると、「良く誤解されるのですが、織田家末裔の人では無く、天童織田藩に仕えていた武士を先祖に持つ方々が、毎年6月最初の日曜日に法要をされるのです。」とのことでした。
いわば織田家に仕えていた藩士の末裔の人々(「養正会」と言われる士族の会)が、今も法要をされているそうです。
織田家の末裔の人ではなかったのはちょっと残念でしたが、それでも、400年以上まえに織田家に仕えていた武士が、その忠義を自分の子孫に脈々と引き継いでいることに感銘を受けました。
しかも、織田家の始祖である信長の命日の頃にやっているのは驚きです。
それだけ織田信長は家臣からの信頼が厚い、すばらしい武将だったのですね。
まとめ
三宝寺は織田信長を始めとする歴代当主や一族、79名の位牌を安置している天童藩織田家の菩提寺です。
そして、宣教師が書いたと言われる織田信長の肖像画写真が日本で唯一残されています。
驚くべき事に、400年以上経った今でも、織田家の始祖である信長を悼んで法要を続けられている天童織田藩の士族のその姿は、まさに殿様に忠義を誓かった武士道そのものだと思います。
また今回お話を伺った三宝寺の住職はとても気さくな方で、お声がけするといろいろとお話をしてくださいました。また、御朱印が有るとは公表されていませんが、お願いすると書いていただけるとのことです。

信長ファンはもちろんですが、歴史好き、戦国武将好きの方には特にオススメのお寺ですので、ぜひ一度立ち寄ってみてください。
| スポット名 | 三寳寺 (三宝寺) |
|---|---|
| 電話番号 | 023-653-2551 |
| 営業時間 | – |
| 定休日 | – |
| 住所 | 〒994-0045 山形県天童市仲町1丁目2−5 |
| アクセス | JR天童駅から徒歩約14分、 山形北ICより車で約15分 |
| 駐車場 | あり |
| 公式HP・SNS | – |
